記事批判コメント 辻元清美氏インタビュー

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『「有権者与野党伯仲ぐらいを望んでいたと思うんですが、野党第1党として『政権交代』と言わざるを得なかった。民主党政権時代の幻想、私たちは一回政権を担ったという思いを捨て切れなかった。そういう意味で、私たちには『野党第1党病』とも言うべき反省があります」』3ページ

 こんな覚悟で「政権交代」とか言ってたのか。つまり本気で政権交代する気はなかった(できると思ってなかった)ってことでしょう。『有権者与野党伯仲ぐらいを望んでいたと思う』って、その有権者って誰(どの層)のことなのか。ここでは、現在の与党の政治に生存を脅かされ一刻も早く政権交代を望む有権者は無視されている。

 

『政治家が有権者から「1票の力」をちらつかされて嫌がらせを受ける票ハラスメント(票ハラ)は後を絶たない。』3ページ(地の文)

 うーん。そもそも国会議員が市民に対して(統治を通して)持つ権力をどう考えているのだろうか。「一票の力」だけに注目することで、自分が持っている権力の大きさが軽視されてしまうのは、危険だと思う。単なる「嫌がらせ」の悪さ自体を否定するわけではないが、「ハラスメント」「票ハラ」という概念化の問題も含め、スルーできない記述。例えば、「私に10万円くれないと、今ここでお前に馬鹿って言うぞ」みたいなことを「ハラスメント」と呼んで良いか。ここでは、その「権力のちらつかせ」=脅しが本人にとってどのくらい有効なのか、という有効性の要素が一つの判断基準になっていると思う。

 

『そうやって目立つ女性議員は特にネット上のミソジニーに晒されます。デマ攻撃も含めて、日常的にDVに遭っているような状態で、』4ページ

 これも「DV」概念について、軽率な表現だと思う。ネット上も含め、日常的に攻撃を受けることになる状態が、DVのようだ・共通点がある、と言いたいなら分かるが、別にわざわざDVを持ち出さなくても、日常的に攻撃を受け被害可能性に疲弊する人々は別にDV被害者だけではない(各種の被差別者を考えてみよ)。それぞれの問題被害の差異を尊重するべきなのは、そうしないとDV固有の問題を無視することにつながるから(例えば逃げにくさや「好きだけど……」という心理的ジレンマなど)。


『「コロナ対策で実績を挙げたニュージーランドのアーダーン首相は、『共感と参画』を掲げています。ポストコロナ時代は分断を煽る『闘争型』の政治ではなく、全ての人と共感をしようとする『共感型』の政治こそ求められていると思っていて、私も目指してきました。差別されたり不公平感を持ったり、男性に比べると暮らしの中でしんどい経験をしているのは女性の方が多いので、『共感型』政治には向いていると思うんです」』5ページ

 まず、政治を「闘争型」と「共感型」の二項対立に区分することはできない(無意味)と思う。あらゆる政治が闘争と共感両方の要素を持っているので。(同意者と共感し合い、対立者と闘争する。)しかし、『全ての人と共感をしようとする『共感型』』という途方もない困難な目標定義を文字通りに受け取るなら、異者・対立者に対してどういう態度を取るかという点で区分はできる。ただ、それはイメージでぱっと思い付くような「リベラル・フェミニスト的政策を掲げるから共感型」というような区分にはきっとならないだろう。また、被差別経験などから女性が共感型政治に向いているというのも妥当かどうか疑わしい。被差別経験があるからこそ闘争型に向いているとも(論理上は)言えるわけで、女性=共感というジェンダーステレオタイプに乗っかってるだけじゃないの、という気もする。